財布は空っぽ。でも、ロンドンはまだ終わらない。
Joe Davisの家を後にした僕は、すっかり満足していた。
いや、満足なんて言葉じゃ足りない。
19歳の僕が、それまでレコード屋の棚やDJのプレイでしか触れることのできなかった世界。そのど真ん中に飛び込んで、憧れのブラジル盤を実際に手に入れてしまったのだ。
夢のような一日だった。
そして、財布は見事に空っぽになった。
幸福度100%。経済状況、ほぼ瀕死。
まさに『冷静と情熱のあいだ』ならぬ、『興奮と破産のあいだ』である。
そんな複雑な感情を抱えながら、帰りの電車を待つプラットフォームに立っていた。
隣には、Far Outの事務所で働いていたRUSSという男がいた。
ロンドン郊外の駅のホーム。少し肌寒い空気の中、僕は買ったばかりのレコードが入ったバッグを大事そうに抱えている。
そんな僕を見て、RUSSがニヤリと笑った。
「カミーヤ、使っただろ?」
「いやー、使ったよ。まさかこんなことになるとは思わなかった!」
すると彼は、いかにも慣れた様子で笑いながら言った。
「ハハハ! みんなそうだぜ!」
なるほど。
どうやらJoe Davisの家を訪れた人間は、みんな同じ病気にかかるらしい。
ブラジル盤買いすぎ症候群。
しかも、かなりの重症だ。
そんな他愛もない会話をしながら、ふと気になったことを聞いてみた。
「ところでRUSS、君はFar Outで何をしてるの? 事務の仕事とか?」
すると彼は、何でもないことのように答えた。
「俺はNO ROOM FOR SQUAREっていうコンピレーションを作ったり、イベントを企画したりしてるんだ」
……。
ん?
ちょっと待て。
NO ROOM FOR SQUARE?
それ、知ってるぞ。
というか、我が家にあるぞ。
というか、めちゃくちゃ聴いてるぞ!
「ええっ! あのNO ROOM FOR SQUARE!?」
「そうだよ」
「持ってるよ! そのコンピ! めっちゃ好きなんだけど!」
RUSSはちょっと嬉しそうに笑っていた。
お、お前もか! ブルータス!
いや、裏切られたわけではないんだけど。
この数日、いったい何なんだ。
沖野さんと出会い、Joe Davisと出会い、マルコス・ヴァーリが電話の向こうにいて、今度は愛聴盤のコンピレーションを作っている本人が隣で電車を待っている。
日本にいた頃なら、レコードの裏ジャケットに書かれたクレジットを眺めながら、いったいどんな人なんだろうと想像していた人たち。
その人たちが、今は普通に目の前で喋っている。
もちろん、世間一般からすれば誰それ? という話かもしれない。
でも、当時の僕の小さなレコード宇宙では、みんなスーパースターだったのだ。
それが、こんなにもあっさりとつながっていく。
ロンドンって、いったいどうなってるんだ。
いや、もしかすると、レコードが好きだというだけで、世界はこんなにも簡単につながるものなのかもしれない。
気づけば、さっきまで気になっていた財布の中身なんて、すっかり忘れていた。
電車がホームに滑り込んでくる。
ガタン、ゴトン。
帰り道は、なんだか行きよりもずっと短く感じた。
そして、Earls Courtの小さな城へ。
長い一日を終え、ようやく自分の部屋に帰ってきた。
シャワーもトイレも共同の、決して立派とは言えない部屋。
でも、今夜ばかりはここが世界で一番贅沢なリスニングルームだった。
レコードバッグを開ける。
一枚、また一枚。
Joeの家で選んだレコードを床に並べてみる。
うん。
少ない。
たったこれだけで、あんなにお金が飛んでいったのか。
いや、考えるな。
今は考えたら負けだ。
そして、チープなレコードプレーヤーに一枚のブラジル盤を載せる。
決して音のいいプレーヤーじゃない。
立派なアンプもなければ、高級なスピーカーもない。
でも、そんなことはどうでもよかった。
針を落とす。
プツッ。
そして、音が鳴り始める。
……。
うわあああ、これや!!
あの京都METROで聴いた、あの感覚。
沖野さんたちがプレイしていた、あの得体の知れないブラジリアン・グルーヴ。
日本ではいくら探しても、なかなか正体にたどり着けなかった音楽。
それが今、自分の部屋で鳴っている。
しかも、ロンドンでJoe Davis本人から買ったレコードだ。
なんという贅沢。
「やっぱり、あの辺のDJたちが回してたレコードって、こんなところから来てたんや!」
一人で興奮していた。
誰に聞かせるわけでもない。
誰かに自慢するわけでもない。
ただ、目の前のレコードから流れる音楽に、ひたすら感動していた。
今ならSpotifyでもYouTubeでも、世界中の音楽を簡単に聴くことができる。
でも、当時は違った。
知らないレコードに出会うためには、誰かに教えてもらうか、レコード屋を歩き回るか、DJがかけている曲を必死に覚えるしかなかった。
だからこそ、一枚のレコードにたどり着くまでの道のりそのものが、冒険だったのだ。
京都のクラブで聴いた音が、沖野さんとの出会いにつながり、Joe Davisの家へと僕を連れていった。
そして、その音が今、ロンドンの小さな部屋で鳴っている。
ああ。
レコードって、なんて面白いんだろう。
大学を辞めて、知り合いもほとんどいないロンドンにやってきた19歳。
英語もろくに聞き取れず、バーガーキングで持ち帰りを注文するだけで冷や汗をかいていた少年が、今夜はブラジル盤を抱えてニヤニヤしている。
財布は空っぽ。
でも、頭の中は知らなかった音楽と、今日出会った人たちのことでいっぱいだった。
たぶん、この時の僕は、世界で一番幸せな貧乏人だったと思う。
そして、この夜に針を落としたのが、この一曲。
あの日、ロンドンの小さな部屋で聴いた音。
30年近く経った今でも、あの時の興奮は忘れられない。
レコードを買っただけなのに、まるで世界の秘密をひとつ手に入れたような気分だった。
そして、僕のレコード大学ロンドン校は、まだ始まったばかりなのである。