レア盤の次はレアモルト。20歳目前、50本の誘惑。

約束の一週間がやってきた。

Earls Courtの街並みも、少しずつ見慣れてきた頃。

いつものように地下鉄の駅を出て、あの酒屋へと向かう。

さてさて。

あのスコットランド人、本当に覚えているんだろうか。

なんせ、Joe Davisの「ちょっと待って」が2時間になる国である。

一週間前の約束なんて、もうすっかり忘れていても不思議ではない。

いや、むしろ忘れている方が自然なのでは?

そんな失礼なことを考えながら、店の扉を開けた。

「おーい! やってきたよー!」

すると、店の奥から聞き覚えのある声が返ってきた。

「おお! カミーヤ! 来たか! 待ってたぜ!」

……。

ほんまかいな。

と、心の中でツッコミを入れつつも、少し嬉しくなる。

「どうだい? 例のシングルモルトは?」

すると彼は、待ってましたと言わんばかりの表情でニヤリと笑った。

「ふふっ。まあ、これを見てみな!」

そう言って、店の奥へと消えていく。

ガサゴソ。

ゴトン。

ガタガタ。

何やら物々しい音がする。

そして次の瞬間。

ドン! ドン! ドン!

次々と運ばれてくる段ボール箱。

一箱、また一箱。

さらにもう一箱。

おいおいおい。

ちょっと待ってくれ。

何じゃこりゃーーー!

目の前には、シングルモルトの段ボールが山のように積み上がっているではないか。

「お、おおお! す、スゴウィじゃないか!」

「だろ?」

得意満面のスコットランド人。

その顔には、まるで自分のコレクションを自慢するレコード屋のような、何とも誇らしげな笑みが浮かんでいた。

いやあ、参った。

本当にやってくれた。

しかし、ここでひとつ問題がある。

中身が何なのか、さっぱりわからない。

当時の僕が知っているシングルモルトなんて、せいぜいハイランドパークくらい。

ところが、並べられたボトルの中には、見覚えのあるものがほとんどない。

聞いたこともない蒸留所。

見たこともないラベル。

読めるようで読めないスコットランドの地名。

またしても、知らない世界が目の前に広がっている。

ついこの間、Joe Davisの家でブラジル盤の洪水を浴びたばかりなのに。

今度はウイスキーの洪水である。

ロンドンという街は、僕にいったい何をさせたいんだ。

すると彼は、一本のボトルを手に取り、まるで授業を始める先生のように話し始めた。

「いいか、ボーイ。よく聞きな」

おっ。

始まったぞ。

シングルモルト大学、ロンドン校。

「スコッチのモルトには、大きく分けて4つの地域があるんだ」

そう言いながら、指を折って説明してくれる。

「スペイサイド、ハイランド、ローランド、そしてアイラだ」

なるほど。

「それぞれに味の特徴や個性がある。だから今回は、できるだけ偏らないように選んでおいたんだ」

へええ。

なんという親切。

ただ頼まれたお酒を買いに来ただけなのに、気づけばスコットランドの蒸留所巡りをしているような気分になってきた。

「スペイサイドは華やかで飲みやすいものが多い。ハイランドは実に多彩だ。ローランドには軽やかなものもある。そしてアイラには、あの独特のスモーキーな個性があるんだ」

ほほう。

レコードでいえば、ジャズ、ソウル、ファンク、ブラジリアンといったところだろうか。

ジャンルが違えば、音も違う。

地域が違えば、酒も違う。

なんだ。

音楽と一緒じゃないか。

すると彼は、少しもったいぶった様子で、奥に置かれた一箱を指差した。

「そして、カミーヤ。これが今回の目玉だ」

ん?

何だ何だ?

「これはレアモルトだ」

レ、レア!?

その言葉に、僕の耳がピクリと反応した。

「地元でしかなかなか手に入らない、貴重なモルトなんだ。今回は特別に頼んで仕入れさせてもらった」

……。

な、なんと。

レコードだけじゃないのか。

ウイスキーの世界にも、レア盤ならぬレアモルトが存在するとは。

しかも、地元でしか出回らないものをわざわざ取り寄せてくれたという。

「お前はラッキーだぜ!」

いやいや。

ラッキーなのはこちらの方だ。

見ず知らずの日本人のために、ここまでしてくれるなんて。

何という男だ。

何というスコットランド愛だ。

そして何というウイスキー愛だ。

その時、ふと日本での出来事を思い出した。

今回のお使いを頼んでくれた、あのバーのオーナーの言葉である。

「カミヤ君。酒好きっていうのはな、結局ワイン、日本酒、モルトのどれかにぶち当たるんや」

「そして、そのどれかにハマるんやで」

当時は、ふーん、そんなものなのかと思っていた。

しかし今、目の前に並ぶボトルを見ていると、何となくその意味がわかる気がした。

産地がある。

作り手がいる。

歴史がある。

そして、希少なものがある。

同じように見えるボトルの一本一本に、それぞれ違う物語が詰まっている。

これは、レコードとまったく同じ構造ではないか。

知らないものを知りたくなる。

知れば知るほど、もっと欲しくなる。

そして、気づけば手元に増えていく。

ああ。

これは間違いなく、散財のオイニーがプンプンする世界だ。

危険だ。

実に危険である。

レコードだけでも財布が悲鳴を上げているというのに、ウイスキーにまで手を出したら、それこそ人生が終わってしまう。

まあ、幸いなことに今の僕には、こんな高級な酒を自分で買う余裕なんてない。

今回はあくまで、日本のバーのオーナーから頼まれたお使いだ。

そう。

お使い。

仕事である。

決して自分のものではない。

ここ、大事。

そんなことを考えながら、彼にお礼を伝えた。

「いやあ、本当にありがとう! こんな素晴らしいコレクションを揃えてくれて!」

すると彼は、何でもないことのように笑った。

「気にするな、ブラザー!」

そして、ふと思い出したように店の奥から一冊の本を持ってきた。

「そうだ、カミーヤ。これも持っていきな」

ん?

今度は何だ?

「もっとシングルモルトのことを知ってほしいんだ。これを読んで勉強するといい」

手渡されたのは、シングルモルトについて書かれた一冊の本。

『Drink of Water』。

……。

なんという親切。

頼まれた予算で酒を揃えてくれただけでなく、勉強用の本までくれるとは。

Joe Davisはブラジル音楽を教えてくれた。

パーシーはサンバジャズを教えてくれた。

そして今度は、街角のスコットランド人がシングルモルトを教えてくれる。

ロンドン大学、授業料は高いが講師陣が豪華すぎる。

いや、今回は僕の財布からは出ていないんだけど。

そんな素敵な出会いに感謝しながら、僕は大量のウイスキーと一冊の本を抱え、Earls Courtの小さな城へと帰った。


そして、事件は起こった。

部屋に戻り、段ボールを並べる。

狭い。

もともと狭い部屋が、さらに狭くなった。

そりゃそうだ。

何しろ、目の前には約50本ものシングルモルトがあるのだから。

レコードバッグ。

安物のプレーヤー。

わずかな生活用品。

そして、シングルモルト50本。

どう考えても、20歳目前の若者の部屋ではない。

もはや小さな酒屋である。

さて。

これを日本へ送らなければならない。

依頼主からは、免税扱いで送ってほしいと言われていた。

というわけで、必要な手続きを確認してみることにした。

ところが。

書類を見ているうちに、ある一文が目に入った。

「帰国する○日前から申請可能」

……。

ん?

ちょっと待て。

もう一度読む。

「帰国する○日前から……」

……。

が、ガーーーン!!!

何ということだ。

つまり、今すぐ送れるわけではないということか。

帰国まで、まだまだ時間がある。

ということは。

この狭い部屋で。

この大量のシングルモルトと。

しばらく一緒に暮らさなければならない。

……。

おいおいおい。

何という試練だ。

目の前には、スコットランド人が情熱を込めて選んでくれた約50本のシングルモルト。

しかも、ただのウイスキーではない。

レアモルトまである。

さらに、その横には教則本まで置いてある。

「これを読んで勉強しなさい」

……。

いやいやいや。

勉強って。

読むだけ?

飲まずに?

こんなにあるのに?

僕はもうすぐ20歳になる。

とはいえ、まだまだお酒の世界なんて知らないことだらけだ。

そんな若造の部屋に、いきなり50本のシングルモルト。

しかも、全部人様のもの。

一本たりとも勝手に開けてはいけない。

わかっている。

わかっているんだ。

でも。

本を読めば読むほど、気になるではないか。

スペイサイドってどんな味なんだ?

アイラのスモーキーって何なんだ?

レアモルトって、そんなにすごいのか?

ああ。

知識が増えれば増えるほど、誘惑も増えていく。

これはもはや、拷問ではないか。

レコードなら、買った瞬間に針を落とせる。

しかし今回は違う。

目の前にあるのに、手を出せない。

聴けないレコードが50枚並んでいるようなものだ。

いや、それ以上かもしれない。

ああ、神様。

なぜ僕にこんな試練をお与えになるのですか。

ロンドンに来てからというもの、欲しいレコードには次々出会うし、お金はどんどんなくなるし、今度は飲めないウイスキーが山ほどやってきた。

一体、僕の人生はどこへ向かっているのだろう。

狭い部屋の片隅で、整然と並ぶボトルたちを見つめる。

琥珀色の液体が、なんとも魅力的に輝いている。

その横には『Drink of Water』。

……。

耐えられるか?

俺。

耐えられるのか!?

こうして、20歳目前の僕と約50本のシングルモルトによる、奇妙な共同生活が始まったのである。

ロンドンのレコード留学。

まさかのウイスキー編。

しかも、今度の敵は自分自身だ。

果たして僕は、一本も抜栓せずに日本へ送り届けることができるのだろうか。

それは、まだ誰にもわからない。